認知的不協和

2018年3月8日

雑談

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花壇をやっている人であれば、雑草を取ることは基本的な作業の一つです。しかし、春になって冬の間さみしかった花壇にハコベやホトケノザの若葉が伸びてくると、あまりの可愛らしさに取るのをためらってしまうことがあります。あの憎きナガミヒナゲシの場合はそれほど悩みませんが、それでも取ったら可愛そうだと感じます。

「雑草」なんて呼ばずに、こうした野草を育てた方が楽しいのではないかと考えることもあります。実際、野草園を売りにしている公園は少なくありません。しかし、一般の人が雑草だらけの花壇を見たら「何だこの花壇は?!」と呆れるでしょうし、私がボランティアをしている都市農業公園だったら、確実にスタッフさんに苦情が殺到するのです。悩ましい問題です。

枯れた植物をどうするかも悩ましいです。そのまま放置するとみっともないと思う一方で、放置すると種ができて翌年にこぼれ種から新しい芽が生えてきます。自然の営みを垣間見ることができます。どちらを優先すべきなのでしょうか。

そもそも土を耕すべきかという問題もあります。土の中には数え切れない菌やら微生物やらが暮らしていて、長い時間をかけてバランスの取れた平衡状態を保っているはずです。それをいとも簡単に掘り返して壊してしまうのはためらわれます。その一方で、ガチガチに固まった土よりは、フカフカの土の方がなんとなく嬉しい気がします。自然に近い状態をよしとするか、多少人工的でも手を加えるべきか、あるいはその中間あたりが良いのか・・・。

ところで、自分の欲求と罪悪感が相矛盾し、苦しくなる現象を心理学では「認知的不協和」というのだそうです。「酒を飲みたいけれど、体に良くない」とか、「肉を食べたいけれど、動物を殺すのは可愛そうだ」とか、こういうのを指すそうです。「学校に行きたくないけれど、行かないとやばい」とか、「仕事を休みたいけど、同僚に迷惑をかけるのは嫌だ」とか。

結局のところ、自分でどちらかを選ぶしかないのでしょう。自分の花壇だったら、好きにできます。近所の人にどう思われようと、「趣味でやってるんです~(笑)」とか言えば問題ありません。一方、公園の花壇の場合は好き勝手にはできません。公園の方針に従う必要がありますから、たぶん美観を優先する方向に進むと思われます。その方針が気に入らなければ、ボランティアを辞めれば済む話です。あ、とりあえず私は農業公園のボラを辞めるつもりはないですが。(^^;


(ハコベのいい写真がないので、オオイヌノフグリで。)


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都市農業公園の花ボランティアに参加しています。自然や生きものが好き。

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