大好きな宮沢賢治の作品の中でも特に好きなのが「なめとこ山の熊」です。「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という冒頭の一文からしてもう面白いです。意外とリアリティーのある話で「なめとこ山」という山も岩手県に実在するそうです(参考ページ)。
ほんとうはなめとこ山も熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。
と、書いてあるあたりも賢治の人柄がにじみ出ていて面白いです。
さて、主人公の淵沢小十郎は熊撃ちの名人ですが、熊たちとは一種の絆があり、互いに尊敬し合う神聖な間柄でした。ところが、小十郎が山を降りて街へ出ると、とたんに弱者の側に回ってしまうのです。せっかく採った熊の毛皮を、荒物屋の主人に安く買い叩かれてしまいます。ここで賢治が物申しています。
いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰(たれ)でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐(きつね)けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。
これって、資本主義における搾取の構図そのものです。技術者が大変な苦労をして開発した成果を、経営者がうまく生かせず、結局どこかの投資ファンドに安く買い叩かれるのにも似ています。
ちなみに「狐けん」というのは、じゃんけんの「グー・チョキ・パー」が「庄屋・猟師・狐」になったもので、この関係でいえば、荒物屋の主人は熊に食べられるはずですが、もちろんそうはなりません。
宮沢賢治というと、子供向けの読みものというイメージがありますが、意外と現実的な話が多く、大人の方が楽しめると思います。(^^) 「フランドン農学校の豚」や「ビジテリアン大祭」などは、生きものを食べることについて、ガチで考えさせられます。
(写真はイメージです。1歳の娘と熊。2013年12月に撮影)
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